存在するはずだった6つの大型店― 茨城県龍ケ崎市・幻のショッピングセンター計画 ― #ノスタルジック商業紀行

商業施設

目次

☆はじめに

1.ジャスコ
(竜ヶ崎ショッピングセンター計画)

2.イトーヨーカドー
(北三ビル計画)

3.忠実屋・ダイエー
(佐貫ショッピングセンター計画)

4.ユニー
(北竜台ショッピングセンター計画)

5.長崎屋
(城南ショッピングセンター計画)

6.ジャスコ
(イオン龍ヶ崎ショッピングセンター計画)

☆おまけ
・昭和百貨店跡地
・現在計画中のSCについて ~城南中学校跡地に生まれる「新しい商業のかたち」~

☆おわりに

☆はじめに
今回、新しくスタートする「ノスタルジック商業紀行」シリーズ。
その第一弾・開始特別編として、地元茨城県の県南に位置する都市「龍ケ崎市」を取り上げることにした。

テーマは、”存在するはずだった大型店“である。

龍ケ崎市は、茨城県南の中でも比較的規模の大きな街で、かつては商業的にも大きな賑わいを見せていた。
それだけに、昭和から平成にかけて、数多くの大型店やショッピングセンターが「次の拠点」としてこの街に注目していた。

しかし結果として、計画は発表されたものの実現に至らなかった例が少なくない。
むしろ茨城県南の中でも、これほど多くの大型店構想が浮かび、そして水に流れた都市は珍しいのではないか。
そんな疑問から、資料をひもとき、当時の計画を追ってみることにした。

調べていくうちに明らかになったのは、予想以上の数の「幻の計画」だった。

それでは、龍ケ崎市に存在するはずだった6つの大型店を、順に見ていくことにしよう。

1.ジャスコ

(竜ヶ崎ショッピングセンター計画)

関東鉄道竜ヶ崎駅前に広がっていた空き地を舞台に、ショッピングセンター建設構想が具体化したのは昭和50年代初頭のことだった。
計画を主導したのは地元商店街の若手経営者たちで、彼らは「竜ヶ崎ショッピングセンター株式会社」を設立。昭和57年4月の開店を目標に準備が進められた。
そこで候補に上がったキーテナントがジャスコ(現イオン)だ。

しかし構想が公になると、地元住民や既存商店から強い反発の声が上がる
大型店ができれば死活問題になる」という危機感は根強く、出店予定地が商店街と近接していることによる客足流出への懸念、当初キーテナントとして予定されていたジャスコの占有面積が大きすぎる点などが問題視された。

さらに、構想発表直後にはJR・関東鉄道佐貫駅西部地区への忠実屋出店計画が浮上。近隣エリアで複数の大型店計画が同時に進行する状況となり、その兼ね合いも含めて計画は慎重に審議されることとなった。

こうした中、「あくまでも地元主導型SCの開発という基本理念を貫くため、ジャスコは竜ヶ崎SCとはなじまなかった」として、キーテナントは地域法人である「茨城ファミリーデパート」へと変更される。
茨城ファミリーデパートは、当時衣料品大手のニチイ(のちのマイカル・サティ、現イオン)の経営指導や商品供給を受けていた全国規模の小売商連合体・日本アライドチェーン(NAC)に加盟しており、栃木県大田原市のエドヤファミリーデパート(後の大田原サティ)、茨城県猿島郡境町の十字屋ファミリーデパート(後の堺サティ)などの資本参加を受けつつ、地元龍ケ崎市の衣料品店カネタヤが主導して設立された企業だった。

この方針転換に対し、ジャスコ側は強く反発。契約違反として地位保全の訴訟も辞さない姿勢を示すなど、計画は一時緊張した局面を迎える。

その後も計画内容の変更や開店時期の延期を重ねながら調整が続けられ、最終的に昭和62年8月14日、「竜ヶ崎ショッピングセンター リブラ」として無事オープン
こうして龍ケ崎市にとって初の本格的ショッピングセンターが、ようやくその幕を開けることとなった。

参考文献:常陽新聞 昭和57年9月13日 一面

2.イトーヨーカドー

2025年に閉店したサプラスクエアのイトーヨーカドーとは別に、龍ケ崎市にはさらに以前、ヨーカドー進出が計画されていた時期があった。

現在のヤオコー竜ヶ崎佐貫店とビバホーム竜ヶ崎店が立地する一帯には、かつて北三株式会社の茨城工場が存在していた。
工場移転に伴い跡地を活用するかたちで「北三ビル」と名付けられたショッピングセンター建設計画が持ち上がる。

当初、この北三ビルのキーテナントとして想定されていたのが、イトーヨーカドー竜ヶ崎店だった。
計画では売場面積は29,700平方メートルとされ、当時としては相当規模の大型店構想であったことがうかがえる。

昭和54年末、建築主である北三株式会社は建設の意向を公表したものの、昭和55年当時の段階では計画が具体化する兆しは見られないとされていた。

参考:大型店舗計画 昭和56年版 東日本版

3.忠実屋・ダイエー

先に紹介したイトーヨーカドー竜ヶ崎店計画は、最終的に頓挫し白紙へと戻ることになる。
そこで計画は見直され、キーテナントを忠実屋へ変更する形で再始動した。

忠実屋による出店計画は、ヨーカドー時代と比べてかなり忠実に進められていたようで、昭和57年頃には開店に向けた挨拶回りが街中で行われていたという記録も残っている。
計画されていたショッピングセンターの名称は「佐貫ショッピングセンター」。

建物はRC造3階建て、塔屋2階を備える構造で、延べ床面積は33,719平方メートル。
このうち店舗面積は15,074平方メートルとされ、さらにその中で忠実屋の占める面積は11,901平方メートルに達しており、忠実屋を中心とした大型ショッピングセンター構想であったことが分かる。

開店時期は当初、平成2年を予定していた。しかしその後、バブル崩壊による消費低迷に加え、いわゆる「忠実屋・いなげや事件」、さらにダイエーとの合併といった一連の動きも影響したのか、計画は延期を重ねることとなる。

平成7年には、キーテナントを忠実屋からダイエーへ変更する方針も示されたが、結果として佐貫ショッピングセンター計画が実現することはなかった

その後、計画地は別のかたちで商業化が進められ、平成11年3月にホームセンターのトステムビバ・ホームズスクエア(現・ビバホーム)が、翌4月にはスーパーマーケットのヤオコーがオープン
当初構想されていた大型ショッピングセンターとは異なる姿ではあるが、この地は現在も龍ケ崎市の商業拠点の一つとして機能している。

参考:
全国大型店出店戦略総資料 1982年版
ショッピングセンター 1989年5月号(187)
いっとじゅっけん 40号

4.ユニー

(北竜台ショッピングセンター計画)

昭和50年前後から開発が進められていた竜ヶ崎ニュータウン
北竜台地区の現在のサプラスクエアが立地する場所に、カスミ北竜台店の居抜きという形でユニー北竜台店が1986年に出店した。

その後、ニュータウン開発の進展に伴い、南茨城新都市開発株式会社を中心として、同地に本格的なショッピングセンターを整備する構想が浮上する。
計画名称は「北竜台ショッピングセンター」。開店予定日は1997年(平成9年)11月1日とされていた。

計画では、鉄筋コンクリート造3階建て、延べ床面積32,842平方メートル、店舗面積約19,492平方メートルという大規模な施設が想定されており、その核店舗としてユニーが店舗面積約3,904平方メートルで出店する予定だった。

しかしこの時期、ユニーは経営再建の途上にあり、その影響もあったのか、北竜台ショッピングセンター計画は次第に具体性を失っていく。
平成9年5月の時点では、すでにキーテナントはユニーからイトーヨーカドーへと変更されており、当初構想されていたかたちでの実現は事実上頓挫していた。

その後、計画は内容を改めて進められ、最終的に「龍ヶ崎ショッピングセンター サプラ」が開業
当初予定されていた3階建てではなく2階建ての構成となったものの、それでも龍ケ崎市史上最大規模のショッピングセンターが誕生することとなった。

参考:
ショッピングセンター 1995年11月号
ショッピングセンター 1996年5月号
ショッピングセンター 1997年5月号

5.長崎屋

龍ケ崎市城南地区(光順田・砂町)には、当時大型スーパーが存在していなかった
このエリアにおいて、砂町商店街の店主らが集い設立した「株式会社コージン」が中心となり、「城南ショッピングセンター コージン」の建設計画が立ち上がる。
当初の構想では、長崎屋をキーテナントとし、ショッピングセンターは「市東部の核」となることが期待されていた。

しかし、この計画は長崎屋の深刻な業績不振により暗礁に乗り上げることとなる。
当時の長崎屋は、主力であった衣料品販売における需要予測の失敗による過剰在庫を抱え、加えて競合他社に比べて食品部門の強化が遅れたことで、営業力が著しく低下していた。

さらに1990年の尼崎店火災による社会的信頼の失墜や、バブル期に進められた多角化投資の失敗による巨額の損失が重なり、経営状況は一層悪化する。
こうした経営危機の深刻化により、長崎屋は新規出店どころか企業としての存続そのものが危ぶまれる状況に陥り、最終的に2000年2月、負債総額約3,039億円を抱えて会社更生法の適用を申請。事実上の経営破綻に至った。

加えて、資金面での支援を予定していた竜ケ崎信用金庫が水戸信用金庫に吸収合併されるなど、不測の事態も相次ぎ、城南ショッピングセンター計画は長期間にわたり停滞を余儀なくされる

事態が大きく動き出したのは、県南地区への進出を狙っていたヤオコー(本社:埼玉)との交渉が成立してからであった。
前年10月にようやく着工にこぎつけると、そこからは「異例のスピード」とも評される突貫工事が進められる。

2000年10月に着工し、2001年1月下旬にはオープン。
わずか3か月余りという工期である。さすがにこれは早すぎると言っていいだろう。

こうして、かつての「長崎屋計画」の跡地には、市内で4番目となる大型店「城南ショッピングセンター」が誕生。
西部のニュータウン地区に商業集積が進む中、市東部における中心市街地活性化の旗印として、年間180万人の集客を見込むかたちで船出することとなった。

参考:茨城新聞 2001年1月26日

6.ジャスコ

先に紹介した「ジャスコ竜ヶ崎店」計画は実現には至らなかったが、その数十年後、再びジャスコ(イオン)による大型店出店計画が龍ケ崎に浮上することとなる。

2000年代前半、龍ケ崎市役所庁舎に隣接する水田地帯に、「イオン龍ヶ崎ショッピングセンター」の建設構想が持ち上がった。
計画地は県道千葉龍ケ崎線に面した市街化調整区域内の農地で、大昭ホール龍ケ崎(龍ケ崎市文化会館)および龍ケ崎中学校の正面に広がる田んぼ一帯とされていた。

総敷地面積は約11ヘクタール。
構想では平屋建て2棟構成、延べ店舗面積は約3万平方メートルとされ、市内最大級の商業施設となる計画だった。
2006年4月の開業を目指しており、目の前の「リブラ」や北竜台の「サプラ」をはじめとする近隣大型店との競合激化も予想されていた。

しかし、予定地は複数の地主が所有する水田や畑に分かれており、用地取得に関する交渉は難航
あわせて、市街化調整区域における都市計画法上の調整や農地転用といった行政手続きも必要とされ、出店に不可欠な事前申出書が提出されないまま、計画は次第に停滞していく。

結果として事業は具体化することなく頓挫し、「ジャスコ・イオン龍ヶ崎ショッピングセンター」は幻の構想に終わった。

現在、建設予定地とされていた一帯は当時とほとんど変わらず、水田や畑として利用され続けている。
かつて県南有数の大型ショッピングセンター誕生が期待された場所は、今もなお、のどかな農地の風景をとどめたまま、静かに時を重ねている。

参考:茨城新聞 2004年5月5日

☆おまけ

昭和百貨店跡地

関東鉄道竜ヶ崎駅前、米町商店街に入ってすぐの場所。
現在、マンション「リーフ・ザ・ガーデン竜ヶ崎」が建っているこの一角には、かつて百貨店が存在していた。

昭和三十年頃に開業した「昭和百貨店」である。
屋上に大きく掲げられた「昭和」の文字が入った宣伝塔が特徴的で、当時の竜ヶ崎ではひときわ目を引く存在だったという。

(…もっとも、百貨店といっても三越や高島屋のような都市型百貨店ではない。
街の中にあった小さな総合商店で、規模としてはせいぜい五十貸店、あるいは十貸店程度のものだったと考えられる。)

この昭和百貨店は、竜ヶ崎で初めての大型店として誕生したものの、開業から四、五年ほどで経営不振に陥ったと伝えられている。
その後、この跡地に大型店が進出するという話が持ち上がり、地元の商業関係者の間に緊張が走った。

当時、出店を阻止するために、竜ヶ崎衣料品組合が当時の金額にして約五百万円を投じ、建物を買い受けたというエピソードも残っている。
結果として大型店の進出は実現せず、その後、建物は「丸新会館」というパチンコ店として利用されることとなった。

駅前の一等地に存在した小さな百貨店と、その跡地をめぐる動きは、後年に繰り返される大型店計画の原点の一つとも言えるだろう。

参考:写真集 龍ヶ崎 ―ふるさとの今と昔(竜ヶ崎青年会議所 発行)

現在計画中のSCについて
~城南中学校跡地に生まれる「新しい商業のかたち」~


2022年に閉校した龍ケ崎市立城南中学校の跡地。鉄筋コンクリート3階建ての校舎や体育館が静かに佇んでいたこの場所に、いま「ネイバーフット型ショッピングセンター」の計画が進んでいる。
事業者として選ばれたのは大和ハウス工業 茨城支店。公募型プロポーザルによって事業者に選定され、市とともに跡地活用の具体化が進められてきた。
計画の核となるテナントは、食品スーパーのロピアと、家具・インテリアのニトリ。これまで龍ケ崎市にはなかった業態が、ようやくこの街にもやって来ることになる。
敷地は約29,891㎡。建物はS造平屋建てを中心とした全7棟構成で、延べ床面積は約8,582㎡を想定。駐車場は532台分を確保する計画だ。
配置計画も興味深い。敷地東側は「お買い物ゾーン」として、ニトリ(約2,200㎡)、ロピア(約3,000㎡)、物販テナント棟(約1,650㎡・テナント未定)が並ぶ実用性重視のエリア。一方、西側の県道竜ケ崎潮来線沿いは「飲食・アクティビティゾーン」。小規模な飲食店棟に加え、ボルダリングやフィットネスなどのスポーツ施設を備える建物も予定され、単なる買い物施設ではない“滞在型空間”を目指している。
さらにこの施設は、災害時の一時避難場所としての機能も備える。駐車場の活用や炊き出し用の「かまどベンチ」設置など、防災拠点として地域に寄り添う仕組みが盛り込まれているのも特徴だ。
…だが、この土地にはもうひとつの物語がある。実は城南中学校が建てられた場所は、もともと田んぼだった。初代校舎は地盤の弱さから傾き、のちに再建築を余儀なくされている。地盤をしっかり固め、盛土をして完成したのが2代目校舎だったが、それでもなお地盤条件は良くなかった。
2011年の東日本大震災では、地盤沈下の影響を受けた。校舎自体は耐えても、足元の大地が揺らぐ…この場所は長年、そうした歴史と向き合ってきた土地なのである。
だからこそ、新たに建設されるショッピングセンターには、地盤対策も含めた万全の状態でオープンしてほしい。記事にあるように、計画はやや時間がかかりそうだが、その“慎重さ”こそが必要な場所でもある。
そしてもうひとつ気になるのは立地関係だ。この新施設の場所は、先述の「城南ショッピングセンター」のすぐ真隣にあたる。同じエリアに二つの商業拠点が並び立つという、龍ケ崎ではかつてなかった状況が生まれようとしている。
果たしてこの二つはどのように共存していくのだろうか。単なる“客の奪い合い”ではなく、役割分担や相乗効果によって地域全体を活気づける関係になってほしい。それが筆者の素直な願いである。
かつては田んぼだった場所が学校となり、学校が役目を終えて新たな商業施設へと姿を変える。街の風景は時代とともに移ろい続けるが、そこに暮らす人々の生活を支える場所であってほしいという思いだけは変わらない。
ノスタルジーと新時代。その交差点に生まれる新しいショッピングセンターが、龍ケ崎にどんな未来の風景をもたらすのか…

長い時間をかけて動き出したこの計画を、これからも静かに見守っていきたい。

☆おわりに
振り返ってみると、龍ケ崎市では長い間、大型店や新しい商業施設に対して慎重、あるいは消極的とも言える空気が存在していたように思う。
代々、保守的な気質を持つ人が多く、新しいものに対してはまず反対から入る

そんな傾向が、少なからずあったのではないだろうか。

また、旧市街地の商店街では、かつて一定の成功を収めたがゆえに、変化への対応が遅れた面もあったように見える。
結果として時代の流れに乗り遅れ、商店街全体が次第に衰退していったのは否定できない事実だろう。
もっとも、現在も営業を続けている商店の多くは、地域に根ざし、熱心に商いを続けている経営者ばかりであることも、ここに付け加えておきたい。

こうした背景もあってか、龍ケ崎市では大型店計画が当初の構想通りに進んだ例はほとんどない
実際に開業に至った大型商業施設も、「たつのこまち龍ケ崎モール」を除けば、その多くが当初予定されていた姿とは異なるかたちで実現している。

時代が移り変わり、近年では「反対」という声そのものをあまり耳にしなくなった
人口構成や消費行動が変化する中で、街の側も少しずつ現実的な判断を選ぶようになってきたのかもしれない。

では、これから誕生しようとしている城南中学校跡地のショッピングセンターは、どのような未来を迎えるのだろうか。
過去のように「存在するはずだった計画」となるのか、それとも新しい時代の龍ケ崎を象徴する場所となるのか・・・

答えはまだ出ていない。
だが確かなのは、この街がこれまで何度も、選ばなかった未来と向き合ってきたという事実である。
その積み重ねの先に、今の龍ケ崎があり、これからの龍ケ崎がある。

この記録が、かつて存在するはずだった大型店と、これから生まれようとする商業のかたちを考えるための、小さな手がかりとなれば幸いである。

2026年3月7日 M.T1970

コメント

Copied title and URL